藤田達生先生の海部歴史研究会講演会「中国大返し」を聞いてきた
「ブロガーに!俺はなる!」と高らかに宣言して始めた当ブログ、すっかり存在も忘れて放置しておりましたが、先日三重大学教授の藤田達生先生の公演で「明智光秀の三日天下」という言葉を聞いてふとこの三日坊主ブログのことを思い出したので、このときの公演のことを書きたいと思います。
【海部歴史研究会講演会】
日時:2019/2/9(土)14:00
場所:甚目寺公民館
近代における蟹江合戦の認識
蟹江町歴史民俗資料館の花井昂大さんの報告。蟹江合戦というのは羽柴秀吉と徳川家康との間で行われた「小牧長久手の戦い」と呼ばれる一連の合戦のうちの一つで経緯は以下の通り
- 天正12年4月の長久手の戦い以降、戦闘は膠着状態にあった
- 徳川家康は清州城に、織田信雄は桑名城に戻っていた
- 蟹江城主佐久間信栄は伊勢の国にいた
- 秀吉方の滝川一益が蟹江城に現れ、城を預かっていた前田長定が滝川の調略を受けて寝返った
- 家康と信雄が2万の兵で蟹江城を攻めた
- 前田長定は首を切られ滝川一益は逃げた
古い資料が少ないということで近世の複数の資料を読み比べてその共通点と相違点を指摘するというお話でした。私自身蟹江合戦のことはあまり知らなかったので興味深く聞くとともに、ああこういった地元の地道な研究が歴史研究を支えているんだなと深く感心いたしました。
本能寺の変直後の織田家重臣の動向-「中国大返し」考-
次はご存知、藤田先生の公演。
という前置きで始まった講演の内容を箇条書きしていきます。
柴田勝家について
- 光秀が最も恐れていたのは京に最も近く大軍を動員できた柴田勝家である
- 天正10年6月2日本能寺の変
- 6月9日に勝家は北庄城に帰還
- 隣国の若狭は国主の丹羽長秀が不在で情勢が不安定
- 若狭から近江にかけて武田や京極などの旧主語勢力が暴れていた
- そのため大阪城にいる丹羽長秀たちと連絡が取れなかった
- 光秀の居場所もわからず武田京極に後ろから攻められるかもしれない状況では出陣は無理
- 光秀の勝家対策は成功していた
明智光秀について
- 勝家対策は完ぺきだった
- 大阪にいる織田信孝と丹羽長秀は怖くない
- 一番遠いところの秀吉が動けるはずないと思うだろう
- 光秀が足利義昭に頼ったのは情勢が不利になったからだという人もいるが、事前に連絡を取っていた
- 本能寺の変の前に毛利と長宗我部の同盟が足利義昭の仲介で成立していた(芸土入魂)
- 光秀がこのタイミングで変を起こしたのは四国出兵を阻止するため
羽柴秀吉について
- 本能寺の変の2日後に毛利と講和
- 山陰街道から長浜ルートを確保していた
- 以前からルート上の領主の協力を得ていた
- 光秀は秀吉が織田信孝のいる大阪城に入るとおもっていた
- だから京街道上の淀城を固めていた
- ところが秀吉は大阪を無視して自分で天下を取りに来た
おわりに
- 天下統一が見えてきて生き残り競争になっていた
- 秀吉と光秀の派閥争いのエネルギーが、かつては領土拡大に向かっていたものが信長に向かってしまった
- 我々は信長を中心に当時を見ているが、当時の人々はそうではなかったのではないか
- 本能寺の変当時は室町幕府は存続
- 織豊を英雄視する見方は明治政府の江戸時代否定の歴史観
個人的には柴田勝家の話が一番面白かったですね。もしかしたら勝家の話に時間使いすぎて秀吉の話は端折ってたのかも。この「海部歴史研究会講演会」は定期的にやっているみたいで次は大治でやるそうですよ。いつかはわからないけど。